西暦年号年齢事項漱石と神奈川
1867慶応30歳2月9日(旧暦1月5日)、江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1番地)に町方名主・夏目小兵衛直克、千枝の五男、末子として誕生。
金之助と命名。出生日時が庚申の日の申の刻で、この日時に生まれた者は大泥棒になるという俗信から、厄除けの意味で「金」の字が付けられた。
生後数ヵ月で四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されたが、まもなく生家に戻される。
1868慶応4/明治元1歳11月頃、門前名主・塩原昌之助、やす夫妻の養子となり、内藤新宿北町裏の塩原家方に移る。
1869明治22歳3月、名主制度廃止にともない、養父が東京府41番組の添年寄となり、浅草三間町に転居。実父は26番組の中年寄、世話掛に任ぜられる。
1870明治33歳この頃、種痘(予防接種)がもとで天然痘にかかり、その痕が鼻の頭や頬に残る。
1872明治55歳新制度による戸籍編製(壬申戸籍)にあたり、養父が金之助(漱石)を塩原家の長男、戸主として登録。
4月以降、一家は内藤新宿の旧・妓楼「伊豆橋」や、元の内藤新宿北町裏の家に住む。
1873明治66歳3月、養父が東京府第5大区5小区の戸長に任ぜられ、浅草諏訪町に移る。
1874明治77歳1月頃、養父と日根野かつとの関係がもとで、養父母の間に争いが生じる。
4月頃、養母と共に塩原家を離れ、一時、夏目家に身を寄せる。
12月頃、浅草寿町に転居した養父の元に帰され、以後、養父、かつ、かつの娘・れんと共に暮らす。戸田学校(第1大学区第5中学区第8番小学)下等小学第8級に入学。
1875明治88歳4月、養父母が離婚。
1876明治99歳塩原家に在籍のまま夏目家に引き取られ、市谷学校(第1大学区第3中学区第4番小学)下等小学第3級に転校。
10月、実父が東京府第4大区の区長を退き、11月、警視庁警視属となる。
1877明治1010歳1月、塩原金之助(漱石)名義で、養父が下谷西町(現・台東区東上野)に新居を建てたため、以後、同地が戸籍上の住所となる(~1890年)。
1878明治1111歳5月頃、神田猿楽町の錦華学校(第1大学区第4中学区第2番公立小学)小学尋常科第2級後期に転校。
1879明治1212歳3月、東京府第一中学校正則科乙に入学。
1880明治1313歳1月、近隣一帯に起きた火災で、夏目家宅も土蔵を残し焼失。
1881明治1414歳1月、実母・千枝死去。
春頃、麹町の漢学塾・二松学舎に転校。
1882明治1515歳春頃、二松学舎中退。
1883明治1616歳秋頃、東京大学予備門受験に必要な英語習得のため、神田駿河台の成立学舎に入学。
1884明治1717歳9月、東京大学予備門入学。まもなく虫垂炎を患う。
1886明治1919歳4月、東京大学予備門が第一高等中学校に改称。
7月、胃病のため留年。
9月、同級生の中村是公と共に本所・江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎から第一高等中学校予科に通学。
1887明治2020歳3月、長兄・大助が、6月、次兄・直則がいずれも肺結核で死去。
9月頃、トラホームにかかり、実家に戻る。以後、眼病に悩む。
夏、中村是公ら同じ下宿の同級生7人で江ノ島へ一泊旅行に出かける。夜遅く対岸に到着、砂浜で毛布にくるまって野宿し、明け方、江ノ島に渡る。
この遠足については翌々年、漢詩文「木屑録」につづられ、晩年発表の「満韓ところどころ」でも追想。
1888明治2121歳1月、養家・塩原家から夏目家に復籍、「塩原金之助」から「夏目金之助」へと戻る。それまでの養育費として、夏目家が養父・塩原昌之助に対し240円を支払う。牛込喜久井町1番地の夏目家の土地を抵当に借り入れた170円を頭金に、残金70円は月払いとし2年後に完済。
7月、第一高等中学校予科(尋常中学科)を卒業。
9月、同校本科一部(文科)進学、英文学を専攻。
1889明治2222歳1月頃から、同級の正岡子規と親交を深める。
5月、回覧された子規の和漢詩文集『七草集』に批評を書き入れ、初めて「漱石」の署名を用いる。
9月、紀行漢詩文「木屑録」脱稿。
1890明治2323歳7月、第一高等中学校本科一部(文科)卒業。
9月、帝国大学文科大学英文学科入学。文部省貸費生となる。
8月下旬~9月上旬、眼病の療養のため箱根・姥子(うばこ)温泉に滞在。漢詩「函山雑咏(かんざんざつえい)」8首、「送友到元函根(友を送りて元函根〈もとはこね〉に到る)」3首、「帰途口号(きとこうごう)」2首を作り、正岡子規に送る。
1892明治2525歳4月、分家し北海道に戸籍を移す。
5月、学費を補うため東京専門学校(現・早稲田大学)講師となる。
1893明治2626歳4月、実家を出て本郷・富樫方に下宿。
7月、帝国大学文科大学英文学科卒業、帝国大学大学院進学。
この頃、帝国大学寄宿舎に移る。
10月、高等師範学校英語嘱託になる。
1894明治2727歳9月頃、菅虎雄宅に移る。
10月、小石川の浄土宗寺院・法蔵院に下宿。
12月末~翌年1月、鎌倉・円覚寺に参禅、その間塔頭帰源院に滞在。この頃、神経衰弱に悩む。
9月1日頃、不安と焦燥に駆られ、衝動的に湘南の海岸へ出かける。悪天候で荒れる海に入り、興奮して叫び声を上げ宿屋の主人を驚かせる。
12月23日、禅の修行者でもある友人・菅虎雄(居士号・無為)の紹介で、参禅のため鎌倉・円覚寺を訪れ帰源院に滞在。円覚寺派管長・釈宗演から「父母未生以前本来の面目」(本人はもちろん、その父母も生まれる前の本来の自己)とは何か、という公案を与えられる。座禅をしながら日夜呻吟し、公案と取り組む。
1895明治2828歳4月、松山市の愛媛県尋常中学校に英語の嘱託教員として赴任。三番町・城戸屋に宿泊後、一番町・津田方(愛松亭)に下宿。
6月、二番町・上野方離れに移り、この下宿を愚陀仏庵と命名。
8~10月、正岡子規が愚陀仏庵に同居。この頃から愚陀仏の俳号で句作に励み、愚陀仏庵で開かれた子規らの句会にもたびたび参加。
10月、子規が帰京。以後、東京の子規に数多くの句稿を送り添削を求める(~1899年)。
12月、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをし婚約。
1月7日、悟りを開けぬまま鎌倉・円覚寺より下山、帰京。円覚寺での座禅修行の体験は、後年、「門」に詳しく再現され、「夢十夜」の「第二夜」にも反映された。また「父母未生以前」の公案は、「吾輩は猫である」「行人」にも見ることができる。
1月頃、菅虎雄の仲介で、横浜の三大英字新聞の一つ"The Japan Mail"(ジャパン・メイル)の記者を志望し、禅に関する英語論文を提出するが不採用となる。
1896明治2929歳4月、愛媛県尋常中学校退職、熊本市の第五高等学校に嘱託教授として赴任。菅虎雄宅に同居。
5月、下通町に転居。
6月、中根鏡子と結婚。
7月、五校の教授に任ぜられる。
9月、合羽町に転居。
1897明治3030歳6月、実父・直克死去。
7月初旬~9月初旬、夏期休暇を利用して上京、子規庵句会にたびたび参加。
9月、大江村に転居。
12月末~翌年1月、山川信次郎と熊本市近郊の小天温泉に旅行。
前年に引き続き、新聞「日本」に多くの俳句が掲載され、子規を中心とする日本派の俳人の一人として知られるようになる。
7月頃、松山から共に一時帰京した妻・鏡子が流産。鏡子の実家・中根家が毎夏避暑に出かける鎌倉材木座の大木喬任(たかとう)伯爵の別荘で静養させる。しばしば東京から見舞いに行き、鎌倉見物や海水浴などを楽しむ。
9月初旬、鎌倉・円覚寺帰源院を訪れ、3年前の参禅で世話になった釈宗活(しゃく・そうかつ)に再会。「帰源院即事」と題し「仏性(ぶっしょう)は白き桔梗にこそあらめ」「山寺に湯ざめを侮る今朝の秋」の2句を作る。また、宗活について「其許(そこもと)は案山子(かかし)に似たる和尚かな」のユーモラスな一句を残す(宗活は「門」に登場する青年僧・釈宜道のモデル)。この時、禅関係の本を借り、鏡子の静養先で熱心に読む。
1898明治3131歳3月、井川淵町に、7月、内坪井町に転居。
1899明治3232歳5月、長女・筆子誕生。
8~9月、山川信次郎と阿蘇山に旅行。
1900明治3333歳3月、北千反畑に転居。
6月、文部省第1回給費留学生として英語研究のためイギリス留学を命じられる。
9月、妻子を日本に残し、横浜港出航、10月、ロンドン着。ガワー・ストリートに下宿。
11月、プライオリー・ロードに、12月、フロッドン・ロードに転居。
9月1日、洋行を共にする芳賀矢一、藤代禎輔と横浜に行き、北ドイツ・ロイド汽船の代理店で運航スケジュールを確認、乗船切符を購入する。
同月8日、ロイド社の汽船プロイセン号で、イギリスに向け、横浜港を出航。
1901明治3434歳1月、次女・恒子誕生。
4月、ステラ・ロードに転居。
正岡子規・高浜虚子あてに送った手紙が「倫敦消息」の題で「ホトトギス」5、6月号に掲載される。
5~6月、化学者・池田菊苗(きくなえ)が同宿、学問上の刺激を受ける。
7月、クラパム・コモン公園北側のザ・チェイス81番地ミス・リール方に下宿。「文学論」著述の構想を固める。
1902明治3535歳9月、正岡子規が結核のため死去。
この頃、神経衰弱に悩む。ロンドンから本国あてに「夏目狂セリ」の打電があったとも伝えられている(打電者不明)。
12月、ロンドン出発、帰国の途につく。
1903明治3636歳1月、帰国。牛込区矢来町(現・新宿区)の鏡子の実家・中根家の離れにしばらく居住。
3月、本郷区駒込千駄木町(現・文京区)に転居。
同月、熊本の第五高等学校を退職。
4月、東京帝国大学文科大学講師、第一高等学校英語嘱託に就任。
7月、神経衰弱が高じ、9月まで妻子が矢来町の中根家に別居。
9月、「文学論」講義開始(~1905年6月)。
10月頃、水彩画を始める。
11月、三女・栄子誕生。
2月7日、ロンドンで知り合った青年・渡辺和太郎を横浜・元浜町に訪ね、和太郎の案内で一日、横浜見物をする。
渡辺和太郎(1878~1922)は、横浜の大実業家・渡辺福三郎(1855~1934)の長男。横浜商業学校卒業後、欧米視察のためロンドンなどに滞在。1901年、ザ・チェイス81番地のミス・リール方の2階に下宿中、3階の空室を漱石に紹介したという。漱石は3階の部屋に閉じこもり「文学論」の準備に没頭するが、和太郎(号・太良)を中心とする句会・太良坊運座を自室で開いたこともある。1902年6月、フランス留学から帰国の途次、ロンドンの漱石の元に立ち寄った画家・浅井忠が、和太郎の転居で空いていた2階の部屋に数日間滞在。
1904明治3737歳6、7月頃、生後まもない黒猫(「吾輩は猫である」のモデル)が迷い込み、夏目家の飼い猫となる。
9月、明治大学高等予科講師を兼任。
11月末~12月初頃、高浜虚子らの文章会「山会」のために書いた原稿を虚子に示し、題名を「吾輩は猫である」とする。
1905明治3838歳1月~翌年8月、「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に断続連載。
1月、「倫敦塔」(「帝国文学」)、「カーライル博物館」(「学鐙」)発表。
4月、「幻影の盾」(「ホトトギス」)、5月、「琴のそら音」(「七人」)、9月、「一夜」(「中央公論」)、11月、「薤露行」(「中央公論」)を発表。
12月、四女・愛子誕生。
「吾輩は猫である」九で、美学者・迷亭と「猫」の主人・苦沙弥先生との珍妙な会話に、鎌倉・円覚寺をめぐるエピソードが織り込まれる。ホラ話で人をかつぐのが大好きな迷亭は、禅の修行を思い立った苦沙弥先生に向かって、禅のとりこになった理野陶然(りの・とうぜん)なる友人の奇行の数々を語り出す。鎌倉・円覚寺前の踏切でレールの上に座禅を組んで汽車を止め、水にも溺れない金剛不壊(こんごうふえ)の身体と称して円覚寺境内の蓮池(妙香池)に入り、危うく僧侶に助けられたなどと話し、苦沙弥先生を煙に巻く。
1906明治3939歳1月、「趣味の遺伝」(「帝国文学」)、4月、「坊っちやん」(「ホトトギス」)、9月、「草枕」(「新小説」)、10月、「二百十日」(「中央公論」)を発表。
10月、面会日を木曜午後3時以降と定める。
12月、本郷区駒込西片町(現・文京区)に転居。
「坊っちやん」一に、四国の中学校へ新米教師として赴任することになった江戸っ子・坊っちゃんの心情を、「生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時許(ばか)りである。今度は鎌倉所ではない。大変な遠くへ行かねばならぬ」と書く。学生時代に同級生らと出かけた江ノ島一泊旅行の思い出を下敷きにした表現ともみられる。
「草枕」十一に、主人公の画工(えかき)が春の夜、山寺の石段を登りながら、かつて鎌倉五山を巡り、円覚寺塔頭の石段で禅僧と言葉を交わしたことなどを追想し、世俗を離れた純粋な喜びにひたる様子が描かれる。
1907明治4040歳1月、「野分」(「ホトトギス」)発表。
3月、東京帝国大学教授就任を断り、朝日新聞社入社を決意。
3~4月、京都、大阪に旅行。京都滞在中、「京に着ける夕」(「大阪朝日新聞」)発表。
4月、すべての教職を退き、朝日新聞社入社。以後の文学作品発表は「東京朝日新聞」及び「大阪朝日新聞」となる。
5月、『文学論』(大倉書店)刊行。
6月、長男・純一誕生。
6~10月、「虞美人草」連載。
9月末、牛込区早稲田南町(現・新宿区)の借家(漱石山房)に転居。
1908明治4141歳1~4月、「坑夫」連載。
6月、「文鳥」発表(「大阪朝日新聞」のみ)。
7~8月、「夢十夜」発表。
9月、「吾輩は猫である」のモデルとなった猫が死去、早稲田・漱石山房の裏庭に埋葬される。
9~12月、「三四郎」連載。
12月、次男・伸六誕生。
1909明治4242歳1~3月、「永日小品」連載。
3月、『文学評論』(春陽堂)刊行。
6~10月、「それから」連載。
9~10月、友人で満鉄総裁の中村是公の招きで旧満州(中国東北部)・朝鮮を旅行。
10~12月、「満韓ところどころ」連載。
11月、「東京朝日新聞」に創設された「朝日文芸欄」を主宰する。
同月、かつての養父・塩原昌之助に100円を支払い、義絶。
1910明治4343歳3月、五女・ひな子誕生。
3~6月、「門」連載。
6~7月、胃潰瘍のため内幸町の長与胃腸病院に入院。
8月、転地療養先の伊豆・修善寺で吐血、危篤状態に陥る(修善寺の大患)。
9月、次第に回復、10月帰京、翌年2月まで長与胃腸病院に再入院。
10月~翌年3月、再入院中に執筆した「思ひ出す事など」連載。
1911明治4444歳2月、博士号授与辞退。
8月、関西への講演旅行中に吐血し、大阪の湯川胃腸病院に入院、翌月帰京。
9月、自宅で痔の手術を受ける。
10月、「朝日文芸欄」廃止。
11月、朝日新聞社に辞意を表明するが慰留される。
同月、五女・ひな子急死。
7月21日、中村是公を満鉄東京支社に訪ね、二人で鎌倉へ遊びに行き長谷の是公の別荘に一泊。鎌倉行きの汽車中で是公が語ったいたずら話は、翌年の新聞連載小説「彼岸過迄」の「停留所」 十三に取り入れられた。
翌22日、逗子・小坪で釣り船に乗り、夕方、帰京。小坪での海釣りのエピソードも、「彼岸過迄」の「須永の話」で、自らの嫉妬に気づき苦悩する内向的な須永の心理を鋭く掘り下げた重要な場面に、ほぼそのまま再現された。
1912明治45/大正元45歳1~4月、「彼岸過迄」連載。
9月、神田錦町の佐藤診療所で痔の再手術を受け、1週間、入院。
12月~翌年11月、「行人」連載。
6月29日~7月1日、鎌倉に滞在(中村是公の長谷の別荘に招かれたと推測される)。
7月21日、鎌倉材木座紅ケ谷(べにがやつ)の貸別荘・田山別荘に、門弟・林原耕三を引率役として子どもたち5人全員を避暑に行かせる。自らは先に出発し、鎌倉・由井ケ浜海岸通りの小林米珂荘(日本に帰化し小林米珂と名乗った英国人弁護士・J.E.デベッカー所有の貸家)に菅虎雄を訪ねる。午後、田山別荘に行き、粗末で狭苦しいのに驚く。一泊して翌日夜、帰京。
8月2日、次男・伸六が猩紅熱で長谷の病院に入院したため、鎌倉に赴き3日間滞在。鎌倉の海で海水浴を楽しむ。同月13、14日、鎌倉に滞在。滞在中、長谷の別荘に中村是公を訪ね、旅行の相談をする。同月25日、子どもたちが鎌倉から無事帰宅したとの報を旅先で受ける。
9月11日、満鉄総裁・中村是公、同理事・犬塚信太郎と共に鎌倉の東慶寺に釈宗演を訪ねる。是公の依頼で交渉していた釈宗演の満州(現・中国東北部)への巡錫(僧侶が各地を巡り教えを広めること)が決まったのを受け、その打ち合わせと挨拶のための訪問であった。鎌倉に一泊し翌12日、帰京。この時に決めたのか、1週間後の19日、是公、犬塚と共に小川一真の写真館(京橋)に行き、左腕に喪章を着けた肖像写真を撮影。
同月22日、是公、犬塚との鎌倉行きを題材に、小品「初秋の一日」を「大阪朝日新聞」に発表。
1913大正246歳4月、胃潰瘍再発と神経衰弱のため、「行人」連載を中断。
9~11月、「行人」最終編「塵労」を連載。
「行人」最終編の「塵労」後半の物語設定は、前年夏、家族のために鎌倉材木座・紅ケ谷(弁ケ谷)に貸別荘を借り、自らもたびたび訪れた経験を下敷きにしたものとみられる。明晰すぎる知性ゆえに狂気へと追いつめられていく作中人物の一郎が、「紅が谷の奥」の「小さい別荘」に友人と滞在し、ようやく束の間の安息を得る場面をもって、物語は完結する。
1914大正347歳4~8月、「心 先生の遺書」連載。
6月、戸籍を北海道から現住所の早稲田南町に移す。
9月、『心』(岩波書店)刊行。
11月、「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
「心 先生の遺書」の冒頭、学生の「私」と「先生」とが偶然知り合う重要な場面の舞台として、避暑客でにぎわう鎌倉の海水浴場が設定された。
1915大正448歳1~2月、「硝子戸の中」連載。
3~4月、京都を旅行、胃痛で倒れる。
6~9月、「道草」連載。
11月9~17日、中村是公と湯河原温泉・天野屋旅館に滞在。
11月頃、和辻哲郎に誘われ、横浜・三渓園に原三渓(さんけい)収集の文人画を見に行く。当日は鵠沼から迎えに来た和辻に伴われ、正午過ぎに横浜駅着。馬車道近くの西洋料理店で昼食をとり、市電で本牧・三渓園に向かう。原三渓邸で歓待を受け、文人画を数多く鑑賞し、夕食をご馳走になった後、帰京。
1916大正549歳1月、「点頭録」発表。
5~12月、「明暗」連載(第188回で中絶)。
11月22日、「明暗」第189回執筆のため机に向かうが1字も書けぬまま、胃潰瘍の再発に倒れる。
12月9日、早稲田南町の自宅(漱石山房)で胃潰瘍のため死去。同夜、デス・マスクの原型制作。翌10日、東京帝国大学病理解剖室で長与又郎の執刀で遺体解剖。12日、青山斎場で告別式。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬。
1月28日、リウマチ治療のため湯河原温泉・天野屋旅館に滞在。
2月16日、湯河原から帰京。途中で鎌倉に立ち寄り、病床にあった釈宗演を見舞う(釈敬俊に見舞いの意を伝え、宗演には会わずに帰る)。
12月10日、漱石生前の意向を受け、中村是公が鎌倉に赴き、釈宗演に告別式の導師を依頼。
翌11日、宗演が鎌倉から来京、友人として霊前に焼香し「文献院古道漱石居士」の戒名を記す。12日、宗演が導師をつとめ告別式が営まれる。14日、「明暗」連載が第188回をもって中絶(「大阪朝日新聞」は同月26日)。物語は終盤に差し掛かっていたが、主人公・津田がかつての恋人・清子と湯河原の温泉旅館で再会する場面を最後として未完に終った。その舞台、迷宮のような温泉旅館は、漱石が2度にわたり滞在した湯河原温泉・天野屋旅館がモデルとされる。
1917大正61月9日の月命日、門弟らが漱石山房に集まり第1回九日会が開かれる。26日、遺著『明暗』(岩波書店)刊行。
12月、第一次『漱石全集』(岩波書店)刊行開始。
1月9日の第1回九日会で、松山時代の教え子で臨終にも立ち会った医師・真鍋嘉一郎が、湯河原に記念碑を建てることを提案。
*略年譜作成にあたり、『漱石全集』第27巻(2004年6月 岩波書店)、荒正人著『漱石研究年表』(1984年6月 集英社)等を参照しました。
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